「酒々井風土記 -酒々井宿物語-」のタイトル

4 牧士のこと

「5 酒々井町の草分けのこと」のタイトル

6 酒々井宿の一里塚
と高札場

篠田大隅、莇孫次郎、嶋田新右衛門、嶋田四郎右衛門、深山惣右衛門、中台治右衛門、鶴岡四郎左衛門、大谷源右衛門、大谷新右衛門、大谷治郎右衛門(略)全部で二十五人、後から引越したのが天野万五郎、清宮小右衛門

酒々井町を造るのに、本町より引越した人々

「文禄二(1593)年 酒々井郷水帳写付記」

天正十九年、千葉氏の遺臣[いしん]で鹿島宿・今の佐倉本町に居住していた莇隼人、莇善佐衛門、莇六左衛門、嶋田新右衛門、小高三右衛門、深山勘解由[かげゆ]、深山長左衛門、中台治左衛門、鶴岡新右衛門、大谷源左衛門、渡利權左衛門の十一人が酒々井町に移り住みました。

『印旛郡誌』 大正二(1913)年現代語訳

三様四殿 草分[くさわ]けは七家?

酒々井にはいつの頃からか「酒々井は七家が草分けとして始まった、のちにこの七家を特別に敬称して三様[さんさま]・四殿[よんどの]というようになった。」との話が伝わっています。

文禄の記録で本町(佐倉市)から引越してきた家が二十五軒とあり、江戸時代半ばの記録を使ったと考えられる記録では十一軒となっています。

酒々井町では人の移動が頻繁でしたから、ずっと酒々井町に住み続ける家は少なかったのでしょう。また、もともと酒々井に住んでいた人がいますので、引越してきた人が草分けとは言えません。

身分制度がある江戸時代では家の由緒[ゆいしょ]は仕事や財産を守る根拠でしたので、本当かどうかは別として根拠を主張することは大切なことでした。三様四殿もこのようなことを背景にしていた呼び方なのでしょう。


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