「酒々井風土記 -酒々井宿物語-」のタイトル

3 佐倉六町酒々井町
のこと

「4 牧士のこと」のタイトル

5 酒々井町の草分け
のこと

牧士刀御免之事[もくしかたなごめんのこと]

佐倉牧野馬[のま]を守る者のことは、刀、脇差を差せるようにしておきなさい。今後のためにこの文書を送ります。以上

  •    慶長四年閏三月九日
  • 大 十 衛  黒印
  • 長 七 左   〃
  • 彦 小 形   〃
  •          鵜 殿 藤 八 殿
  •          佐野 五右衛門 殿

右の文書は酒々井町島田長右衛門が保管しています。

「野馬方日記」 『酒々井町史史料集四』

牧士とは

下総(千葉県北部)の広大な台地は戦国時代に馬牧[ままき]として利用されており、徳川家康の領地となってからも小金[こがね]五牧、佐倉七牧と呼ばれる徳川幕府の直営馬牧が置かれました。

酒々井町には江戸時代を通じて幕府の野馬会所[のまかいしょ](管理事務所)が置かれ、馬牧は酒々井町の繁栄の基盤となっていました。

その馬牧の管理運営に当たったのは牧士[もくし]と呼ばれ、千葉氏時代から馬牧を担っていた千葉氏の旧家臣でした。

牧士の由緒を物語る「牧士刀御免之事」は慶長四(1599)年に鵜殿・佐野という佐倉代官が代官頭の大久保長安らに牧士の帯刀[たいとう]について伺いをしたことに対する返事であり、この時期には島田長右衛門ら千葉旧家臣が馬牧の管理運営に当たっていたことと帯刀の身分の取り扱いが決められたことが分かります。

佐倉牧

佐倉牧は七牧あり野馬奉行支配の四牧と佐倉藩預かりの三牧とに分かれていました。

酒々井町の牧士は四牧を担当し牧士と牧士並[なみ]、牧士見習[みならい]、馬医[ばい]の十五人程度が主となり、付近の村々の協力を得て牧の管理運営に当たっていました。毎年秋に行われる野馬捕りと馬御払[うまおはらい](セリによる払い下げ)の行事は牧経営の最大の行事で勢子廻[せこまわし]、捕手、網掛[あみかけ]の十数名も加わり、村々より集められた人足(追勢子[おいせこ])を牧士が指揮して捕馬を行いました。

捕えた馬は、各牧の捕込場で御払をし、売れ残った馬は酒々井の会所の御払場へ入れて、セリにかけました。日常の管理は三牧と四牧は別ですが、捕馬と御払いは酒々井で行ったので、当日は幕府野馬掛[のまかかり]、野馬奉行、佐倉藩野馬掛、七牧牧士等や近隣の村々の手伝い、馬を買う人、馬喰[ばくろう]、見物人等が大勢集まり酒々井の宿は「お祭り」のような雰囲気になったと言い伝えられています。

牧と恵み

佐倉牧は南北35km、面積約180k㎡(山手線の内側の三倍)と広大な土地に馬が約三千頭飼われており、またこの土地は広大な里山でもあり用材、薪・炭材、山菜や草を周辺に提供していました。

「佐倉牧略図」画像
佐倉牧略図
佐倉市刊行の『近世の佐倉』掲載図を改編して使用。

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