「酒々井風土記 -酒々井宿物語-」のタイトル

13 牡丹餅喜兵衛三十石

「14 黄門様と酒々井宿 地蔵院」のタイトル

15 一つくんねど
通せんぼっこ

日差しもずいぶんと長くなった四月二十二日、黄門様は祖母の墓参りと史料採訪のため相州鎌倉を目指し水戸城を出発します。

二十六日、朝七時に常陸押砂[ひたちおしずな]の旅宿を後にした黄門様と一行は小船で香取の神崎神社に参詣し、馬に乗り換え成田山を参詣したのち、伊篠を経て、印旛沼を眺める中川を通り、午後三時過ぎに酒々井宿に着きました。

黄門様一向は出迎えに案内され和泉守[いずみのかみ]が宿所に用意した酒々井仲宿にある地蔵院に到着します。地蔵院は千葉氏有縁の寺と伝わり、代々の佐倉藩主が幕府の野馬役人や参勤交代の休息所として営んでいました。黄門様は夕飯を命じ、準備が調うまで役人から酒々井について聞き書きをします。「この宿は東照宮様が取り立てた由緒ある町である」「文字には酒々井と書きススイと読む」「東照宮様、台徳院様が来られた」などなど。

夕飯を済ませると、先ほど聞き及んだ千葉氏の氏寺、浜宿[はましゅく]の勝胤寺[しょういんじ]に向かいます。仲宿から下宿円福院、肥前[ひぜん]坂、下野[しもつけ]橋、本佐倉城跡を案内役人の説明を聞きながら通り過ぎると禅様[ぜんよう]の大屋根の寺院が見えてきました。

勝胤寺といい、戦国時代千葉勝胤[ちばかつたね]が建立し、規模と伽藍[がらん]は下総最大の禅寺と称され、東照宮様[とうしょうぐうさま]から御朱印二十石を寄進されていました。黄門様は寺の由来や寺宝の千葉石、鬼の牙、九穴貝[くけつのかい]をご覧になり、千葉家由来の名物[めいぶつ]茶碗で一服した後に本堂の奥にある千葉氏代々の供養塔[くようとう]を見学しました。

帰路、将門社の脇を通り本佐倉の清光寺を過ぎようとしたとき、住職の林悦[りんえつ]が清光寺と徳川家の縁について説明を申し出ます。

住職曰く「清光寺は東照宮様の父上、道幹公[どうかんこう]様の御分骨が祀[まつ]られる浄土宗の寺院で、東照宮様が東金に鷹狩りの折、当寺に一泊して霊廟の印に厚朴[ほう]を栽植し、あわせて五十石を供養料として寄進された云々」黄門様にとっては初めて聞く曾祖父の物語でありました。

翌朝、朝七時に黄門様一行は佐倉藩士、町役人らに見送られ千葉を目指して酒々井宿を後にしました。

水戸光圀と旅

この文章は『甲寅紀行[こういんきこう]』の記事を脚色したお話です。『甲寅紀行』は延宝二(1674)年、水戸藩主水戸光圀が祖母と継母の三十三回忌供養のため水戸から鎌倉に出かけたときの日記です。

このなかに酒々井宿のことが書かれています。

文中で黄門様と書きましたが、この時期は御隠居様の黄門様では無く、四十五歳の現役の藩主水戸宰相光圀[みとさいしょうみつくに]ですが別人のようになってしまいますので、テレビドラマで知られる呼び名で書いてみました。ちなみにお供は助さん、格さんではなく、元さん(吉弘元常[よしひろもとつね])や友さん(河合友水[かわいともみず])でした。

地蔵院のこと

地蔵院は延命山[えんめいざん]地蔵院といい酒々井横町の東光寺の下寺[したでら]でした。江戸時代の絵図には中宿の東に地蔵院とあります。

元禄二(1689)年十月十九日名寄帳[なよせちょう]には「地蔵院屋敷」、寛延三(1750)年『佐倉藩年寄部屋日記』には野馬奉行「旅宿酒々井地蔵院」とありますが、天明六(1786)年以後の野馬奉行の宿は勝蔵院に替わっています。おそらくこの間に地蔵院は取り壊されたのでしょう。いまは小さな地蔵堂が建っています。

「仲宿 地蔵堂」画像
仲宿 地蔵堂

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