「酒々井風土記 -酒々井宿物語-」のタイトル

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2 家康と酒々井のこと

今は昔、この地に孝行息子が住んでいた。家は貧しく父母は年老いていたが息子は良く両親に尽くしていた。その父親は酒好きであったので、息子は毎日働いて銭を稼いでは父親に酒を買って帰っていた。息子は父親の満足そうでうれしそうな顔を見るのが一番の楽しみだった。だが酒を買う銭を稼ぐのは苦労なことだった。

この地には古い井戸があった。その日、息子は酒を買う銭がつくれず、このまま帰れば父親の楽しみを無くしてしまう、こんな親不孝はない、どうしようかと思案しながら家路を歩いていた。そのとき、あの井戸から酒の香りが「ぷうん」としてきた。息子は不思議に思いながら井戸の水を汲んでなめてみると、それは上質の酒だった。息子は喜び、急ぎ家に帰って父親に飲ませた。これより先、息子は無理に銭をつくらなくても、井戸から酒を汲んで飲ませるようになったという。この話しが近隣に広まると「孝行息子の真心が天に通じたに違いない」ということになった。後にこの井戸を「酒の井」と呼び、村も「酒々井」と呼ぶようになったという。

『印旛郡誌』 大正二(1913)年現代語訳

「酒々井」の由来

「酒の井」伝説は酒々井区の円福院神宮寺[えんぷくいんじんぐうじ]に伝わる「孝子酒泉[こうししゅせん]」、「地名由来」、「伝承碑」伝説の3つからなる珍しい伝説です。

「孝子酒泉」伝説は鎌倉時代に武士の子弟の教科書である『十訓抄[じっきんしょう]』に書かれている養老の滝説話が広まったとされています。酒の井伝説では「親子ともに酒」であり「酒」の部分が強調されています。また自然の湧水[わきみず]ではなく集落の井戸となっています。

鎌倉時代の後期に武士の子弟[してい]に学問を教えた僧侶を通じて「孝子酒泉」の説話がこの地に流布[るふ]されると、鎮守[ちんじゅ]である麻賀多[まかた]神社の御神酒[おみき]を造っていた円福院神宮寺の井戸が酒泉とされ「酒の井」伝説が成立したのでしょう。

酒の井が地名の由来となったと伝わりますが古くから地名は縁起[えんぎ]の良い漢字二文字を使う「好字[こうじ]二文字」で名づけるのが習わしで三文字の地名はあまり例を見ません。おそらく印旛沼に面したこの土地は涌水の井戸が多く、「しゅすい(出水)」と呼ばれていて、文字には音(おん)が同じで豊かさを表す「酒(しゅ)」をあて、豊かさが繰り返すよう酒の文字を重ねて「酒酒井(酒々井)」と書いたのでしょう。十五世紀には「須々井」と書かれたことがありますが十六世紀以後は「酒々井」と書かれ、読みは「シュスイ・ススイ」となっています。

さらに室町時代のはじめに、この神宮寺に幾つかの板碑[いたび](板石塔婆)が有力者により造られましたが、いつしか板碑は忘れ去られました。江戸時代となり、寺は小さくなり井戸も埋まりましたが、傍らの板碑が伝説を記念する「酒の井の碑」であると語られるようになりました。

そして江戸末期に国学者たちが古い書物に書かれた「盃の井」場所こそ酒々井の「酒の井」であるとして紹介したことから広く知られる伝説になりました。

「酒の井の石碑」画像
酒々井山円福院神宮寺
中央が酒の井の石碑です。(14世紀の下総型板碑)

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