「酒々井風土記 -酒々井宿物語-」のタイトル

15 一つくんねど
通せんぼっこ

「16 勝蔵院とお不動様のこと」のタイトル

17 東台の不動堂のこと

酒々井町の真中の程の右に内野牧[うちのまき]への道があり、その少し先の左の方に左右桜並木の馬場[ばば]があります。長さは一丁[いっちょう](約100メートル)ほどで先に仁王[におう]門が見えます。仁王像は高さ六尺で真新しい仁王像です。

ここは真言宗勝蔵院、本堂は三間四方ぐらいで茅葺[かやぶ]き。坐像[ざぞう]の不動明王[ふどうみょうおう]は新しい仏で左右に脇侍[きょうじ]のこんからとせいたかとも彩色されています。不動明王の高さは約七尺で脇侍は約三尺。しこくの大不動です。堂の中は筒などが片付かないほどたくさんあり、不動明王の前には護摩壇[ごまだん]があります。

「この不動明王は先年に江戸で造られた時に同じ工房で甲州から信玄の像を造っていたため、信玄の頭と不動明王の頭を取り違いにつけてしまった。信玄の髪の毛を植えてしまい、後で塗り隠したけれど、恐ろしい顔となっています。」このように地元の者がいっていました。

そこでよくよく見ると、普通の不動明王の顔とはずいぶんと違う、また頭はごわごわで茶色かかっています。

この不動明王は人々が皆、成田不動を信仰するため、こちらの不動へ参詣客を引き付けようと堀田上野[こうずけ]殿が造ったと聞いていますが参詣客はいません。

仁王門の内側も左に造りの立派な鐘楼[しょうろう]があります。客殿[きゃくでん]の庭からは周辺の山が一面に見通すことができ、本佐倉城なども見えてよい景地です。

渡辺善右衛門 『古今佐倉真佐子』

酒々井町の公会堂

勝蔵院は「処宝山[しょほうざん] 長現寺[ちょうげんじ] 勝蔵院」といい酒々井町の中央、仲宿と下宿の境にあるお寺です。江戸時代は本佐倉の文殊寺の末寺でしたが、現在は吉祥寺[きっちょうじ]が管理しています。

下宿の旧家の古文書によれば、佐倉藩主、戸田能登守忠真[のとのかみただざね]が元禄十二(1699)年十一月に建立[こんりゅう]を始め仁王門・客殿・不動堂を突貫工事[とっかんこうじ]により造らせ、十二月二十四日に不動明王の入仏式[にゅうぶつしき]を行い、翌十三年四月までに鐘楼堂・念仏堂と仁王像など建立したとあります。

元禄十二年九月に父である山城守忠昌[やましろのかみただまさ]が亡くなっており、寺の建立は父の残した遺言[ゆいごん]とも考えられ、忠真が前年まで幕府寺社奉行[じしゃぶぎょう]を務めておりましたから短期間に建てられたのでしょう。

戸田氏が精魂込めた勝蔵院は建立の二年後に戸田氏が越後高田[えちごたかだ]へ転封したため、寺院は酒々井町の町民が維持していました。その後、酒々井町の「公会堂」として、祭礼、大師講[だいしこう]、題目講[だいもくこう]などいろいろな年中行事や佐倉七牧[さくらななまき]の捕馬[ほば]の役人宿所として利用されています。

参考とした『古今佐倉真佐子[ここんさくらまさご]』の作者渡辺善右衛門が勝蔵院を訪れたのは、寺が建てられてから二十年前後のことと考えられます。渡辺善右衛門の主君は佐倉藩主で老中であった稲葉氏で、成田山を一躍有名にした人物です。

元禄十四(1701)年の成田村には宿屋は一軒もありませんので、このころになり成田山に参詣する人々が増えてきたのでしょう。

現在、勝蔵院本堂、不動明王坐像は町指定文化財となっています。また本堂に掲げられた「処宝山」の額は戸田能登守忠真の揮毫[きごう]によるものです。

「不動明王坐像」画像
勝蔵院本尊 不動明王坐像
首から上は武田信玄?

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