「酒々井風土記 -酒々井宿物語-」のタイトル

2 家康と酒々井のこと

「3 佐倉六町酒々井町のこと」のタイトル

4 牧士のこと

寛政十一(1799)年九月十三日、佐倉藩主堀田大蔵大輔[ほったおおくらたいふ]様が江戸から佐倉に帰られることとなり、城下の田町枡形[ますがた]に午後二時に六ケ町役人と私、牧士[もくし]長右衛門は出迎えるよう町奉行所から酒々井町名主に連絡がありました。

当日、朝七時に長右衛門、酒々井町名主・組頭は田町の集合場所に向かい、上下[かみしも]に着替え、その後、全員で田町枡形に向かい町同心頭の指示で並び、殿様の到着を待ちました。

並び順は鹿島橋に近いほうから

  • 田  町    名主・組頭
  • 新  町    名主・組頭
  • 肴  町    名主・組頭
  • 弥 勒 町    名主・組頭
  • 本  町    名主・組頭
  • 本佐倉町    名主・組頭
  • 酒々井町    名主・組頭
  • 酒々井町牧士[もくし] 長右衛門

枡形入口に殿様が到着すると町奉行様が「六ケ町名主組頭」と大声で紹介し、次に「酒々井町牧士 長右衛門」と紹介していただきました。

「野馬[のま]御用日記」 『酒々井町史史料集二』

佐倉城下酒々井町

江戸時代に幕府の牧を管理していた牧士頭島田家には多くの業務日誌が残されています。

その日誌に参勤交代で佐倉に戻る佐倉藩主の出迎え記事がいくつか記録されています。

そこに佐倉城下町の六ケ町の名主と組頭と共に迎え出たことが書かれています。

城下町は藩主の城を中心に武家町、町人町、寺社町を計画的に配置した都市を指します。

江戸時代中期の佐倉城の絵図を見ると本町までが城下と描かれ、本佐倉町と酒々井町は絵図には描かれていません。また佐倉城と酒々井町は約5kmも離れています。

本佐倉町と酒々井町が佐倉城下であった理由は佐倉藩が生まれた場所が本佐倉であり、その城下町が本佐倉町と酒々井町だったからです。

文禄二(1593)年に徳川家康の五男武田信吉が本佐倉に陣屋を作り佐倉藩が生まれて以降、土井利勝[どいとしかつ]が新しく城を作り、現在の佐倉城に移転する慶長十六(1611)年頃までは佐倉藩の中心は本佐倉町と酒々井町でした。元からの城下町は新しい城下町に移転するのが普通ですが、酒々井町は家康が作った町でしたので土井利勝も遠慮したのでしょう。

土井勝利は城の周辺に新町や肴町、弥勒[みろく]町を配置し、千葉氏時代からの本町や田町を取り込み以前からの城下町本佐倉町と酒々井町を含め藩の流通経済を支える町、佐倉六町としました。享保七(1722)年の『佐倉風土記』に「佐倉六町、田町、新町、弥勒町、本町、本佐倉町、酒々井町」とあります。

『古今佐倉真佐子』付図部分の画像
『古今佐倉真佐子』付図 部分
元禄年間(1688~1703)の佐倉城と城下を描いている。
(佐倉市指定文化財、図は部分、一部改編)

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